数年ぶりに缶コーラを飲んでいます。缶の下に、水滴の輪っかがひとつ、机に残っています。
缶は、真上から見ると、円です。
横から見れば、細長い四角。
3次元的に見れば、円柱。
赤くて、冷たくて、中に甘い水が入っている。
この缶の「本当のかたち」は、どれでしょう。
円だと言う人も、四角だと言う人も、べつに間違っていません。ただ視点が違うだけ。缶は、見る角度の数だけ顔を持っていて、そのどれもが正しくて、そのどれも、一人で「これが本体だ」と手を挙げることができない。
缶コーラの話をしているようで、たぶん、していません。
数学に、米田の補題という定理があります。乱暴に言ってしまえば「物体の本質は、それが周りのすべてと結ぶ関係値で決まってしまう」ということ。
円という関係、四角という関係、赤という関係、飲むという関係。ぜんぶ束ねたら、その束の裏側に「本当の缶」はもうありません。全て正解でありますが、別の視点からでは間違いに思える。
同じことを、2000年前の坊さんが言っていました。
空、という言葉。「無」ではありません。
自性。他から切り離しても、それだけで立っていられる芯。それが無いのが、空です。
オールドファッション、もっちゅりん、フレンチクルーラー、ポンデリング。
ドーナツの味や材料が変わろうが、ドーナツの穴は存在する。それが空。
この世のすべては関係の中にだけ、一時的に浮かんでいる。
龍樹という人が、しつこいくらい論理でそれを詰めました。
現代数学と、仏教。同じことを言ってる気がします。
こういうものが一度目に入ると、しばらく戻れなくなります。湯呑みも、信号機も、向かいに座った人の顔も、ぜんぶ「関係の束」に見えてくる。世界が、うっすら半透明になる。これを悟りと呼ぶのか、ただの寝不足と呼ぶのか、私にはいまだに、よくわかっていません。
世界はドーナツの穴でできていて、あるのは関係だけなら。「私」と「あなた」を分けているあの線も、結局は関係のベクトルにすぎない、ということになりませんか。絶対の壁ではなくて、たまたま、いまそう見えている、ただの線。
あるいはホログラフィック原理。ある領域の中身は、それを包む境界の面に、情報として全部書き込めるかもしれない。3次元が、2次元の膜の投影かもしれない、と。世界中の学者さんたちが大真面目に議論していることです。
ちなみにこの理屈だと、缶一本ぶんの体積には、原理上とんでもない量の情報が入ります。1リットルあたり、ざっと10の66乗ビット。
10,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000ビット。
世界中のドーナツの数だけ、ドーナツの穴が存在するのと似ている気がします。
あるいは、この缶のアルミも、コーラに溶けた炭素も、私の指先の材料も、もとをたどれば、どこかの星の芯で焼かれて、その星が終わるときに宇宙へばらまかれた、燃えかすです。数十億年かけて、無数のものを通り抜けて、いま、たまたまこの机の上で「缶」と「手」のかたちをしているだけ。
ドーナツの穴を食べたことのある人はいません。
でも、世界は空、ドーナツの穴でできている。
では、間違いなく存在するものというのは何か。
私とあなたの分離が存在しないのなら。
ドーナツがあって、ドーナツの穴が存在できるなら。
恩恵のやり取りを前提とする「感謝」は構造的に成り立たなくなるはずです。
すべてが自分の心の反映であるなら、そこにあるのは自己と世界というシステムへの感嘆。
つまり、世界には「賛美」しか存在しません。
誰かが誰かに何かをした、という取引ではなくて、ただ「この世界が、こんなにもうまく回りつづけていること」への、行き場のない感嘆。
ドーナツを食べるときに「穴を空けておいてくれてありがとう」とは思いませんよね。生地も穴も合わせてドーナツだからです。
生地が囲むから穴が生まれ、穴があるからこそドーナツという形が立ち上がっている。それは、分かたれた「私」と「あなた」ではなくて、最初からひとつの出来事です。
もし、私とあなたと世界が分かれていないのだとしたら。やっぱり感謝というシステムは、そもそも成り立ちません。他者がいないなら、片方からもう片方へ何かを渡す、という前提が崩れてしまうからです。
(誰かを傷つける場合でも同じことです。自分の右手が自分の左手をつねって、わざわざ「ごめんなさい」と言わないように)。
では、感謝が消えたあとに、何が残るのか。
それは、「ありがとう」というやり取りの代わりに湧き上がる、「なんて見事な形なんだ!」あるいは「ドーナツ美味しい!」という純粋な感動です。
実体のある生地と、何もない空洞が、お互いを縁取り合ってひとつの完璧な輪を作っている。無いものと有るものがピタリと噛み合って、世界が丸く保たれている。
「この連動している仕組み、めっちゃよくできてるな」「なんて美しいんだ」という、ただそれだけの喜び。
誰から誰へでもない、この見事な構造そのものへの讃嘆だけが、そこに残ります。
たとえば、誰かが「これは円だ」と言い張って、こちらの「四角」とぶつかったとき。言い返す前に、一度だけ、その人が立っている側へ回り込んでみる。たいてい、そこからは本当に円に見えます。相手が間違っているのではなくて、同じ缶の別の面を、正確に報告していただけ。そういうことが、思っているより、ずっと多いのです。
書きながら、何を言いたかったのかわからなくなってきました。
コーラは、すっかりぬるくなりました。ドーナツが食べたくなりました。
円で、四角で、円柱の、行き場のない讃嘆を、ひと口ずつ。それから、この缶を出した自販機にも、夜中に補充して回っている誰かにも、心の中で、ありがとう、と言う。言ってしまう。世界の構造として、本当は感謝が成り立たないはずなのに。
分かれ目が無いのなら、そのありがとうは、いったい、誰から誰へ行くんでしょうか。
それはおそらく、世界、それを構築する自分への賛美です。